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歴史

○フィジーの伝説によれば、人々が大酋長ルツナソバソバに率いられ、マレー半島を経由して東南アジアから海を越えてフィジーの地にやってきたとされている。
考古学的には紀元前1300年頃にはヴィチレブ島に人が住んでいたとされる。

○ヨーロッパ人ではじめてフィジーにやってきたのは、オランダ人の冒険家タスマンである。これが1643年のこと。日本だと江戸時代初期の頃合いである。
次にフィジーへ到達した記録が残っているのはイギリス人の航海家のクックである。1774年のこととされている。

○19世紀初頭には、白檀を求めて多くの欧州系商人がフィジーに到来した。他方、難破船乗組員やオーストラリアからの脱走囚などもフィジーに流れ着き、定住する者もいた。また、このころのフィジーはは諸首長割拠の時代であり、有力な首長たちが近隣の村落を征服統合し、部族間の戦争が慢性的に続いていた。

○1844年にイギリス人の宣教師がやってきて、布教を行い、フィジー王ザコンバウ.jpg1854年に当時のフィジーの王であるザコンバウがキリスト教に改宗している。なお、宣教師が力を持ち始めてから、当時フィジーにあった食人の風習は急激に消滅していった。

○1874年イギリスの植民地になるが、武力で制圧されたわけではなく、自らイギリスの保護領となっている。理由として、米国の軍艦、外国人等が、フィジー人から受けた損害の賠償としてザコンバウに対し莫大な金銭を請求、これに窮したザコンバウがフィジーの主権を譲り渡す代わりに英国に賠償の肩代わりを頼んだこと、あるいは当時トンガからの侵略の恐れがあったためとも言われている。
当初の首都はオバラウ島レブカで、1882年に現在の首都スバに遷都している。フィジーの戦士.jpg

○1879年、これ以後のフィジーの歴史と文化に多大な影響を与えるインド人が、はじめてサトウキビプランテーションの労働者としてフィジーにやってきた。1916年まで人口の流入は続いた。
なお、この頃やってきたインド人(インディアン)であるが、彼らは契約移民であり、彼らの多くが契約期間が過ぎても本国には帰らず、フィジーで独立した農家になるか商業に従事するかしていった。そして彼らの子孫がやがてフィジーの人口の半分を占めるようになる。
1910スバ
○1970年イギリスより独立。英連邦30番目の加盟国となった。

○1987年4月、総選挙の結果により、フィジー系フィジー人(フィジアン)ババンドラが首相に任命されたが、インド系閣僚の数がフィジー系閣僚を上回った。翌5月、フィジー人の権益保護を掲げたランプカ中佐率いる軍によりクーデターが発生。9月に2度目のクーデターが発生する。10月には共和制を宣言し、英連邦から離脱。

○1990年フィジアンに有利な憲法を公布するが、これを見直し、1997年に改正憲法を公布して英連邦に再加盟した。

○1999年総選挙でインド系のチョードリーが首相に就任するが、翌2000年、ジョージ・スペイド率いる武装グループが国会を占拠する事件が発生した。これに対し軍が戒厳令を発令し、文民暫定政権が誕生した。

○2001年総選挙が実施され、ライセニア・ガラセが首相に就任した。

○2006年バイニマラマ国軍司令官は、ガラセ政権及び、上下両院の解散、主要政府高官の更迭等により無血クーデターを敢行。バイニマラマ国軍司令官が大統領代行を宣言。

○2009年、この軍事政権を憲法違反とする判決が出されたが、逆に軍事政権は憲法を廃止させた。また、国際的には民主的選挙の未実施により英連邦の資格を停止させられる。
2010スバ
○2014年、総選挙が行われ、民政を回復。また、イギリス連邦に復帰した。

土地所有制度

フィジーの土地所有制度は独特です。フィジーのほとんどの土地はフィジアンの部族が所有しており、自由に売買できる土地はごくわずかです。
フィジーの土地は以下の3つに分類されます(数字は1986年データ)。
・ネイティブランド(Native Land)=83.2%
・フリーホールドランド(Freehold Land)=9.8%
・クラウンランド(Crown Land)=7.0%

ネイティブランドとは昔からフィジアンが所有している土地で、フィジアン以外の所有は認められていません。フィジアンが利用していない土地を借地としてインディアンか借りて農業をしています。インディアンがいくら頑張ってお金を貯めても、この土地は購入できません。
フリーホールドランドとは植民地化以前に入植した主に欧州人によって購入(略奪?)された土地で現在も売買可能です。しかし、フィジー全体の10パーセント程度なので、売買価格は非常に高価となっています。
クラウンランドとは政府の所有の土地で、公共目的に使用されています。

なぜ、このような土地所有制度が出来たかと言うと、それは1874 年、フィジーが英国の直轄領となった時にさかのぼります。当時のフィジーでは、欧州系入植者がプランテーション経営のために、殆ど略奪に近い方法で土地をフィジアンから買い取っていました。これを見かねた初代フィジー総督ゴードン卿はフィジアンの土地の権利を守るためフィジアン以外には所有権を認めない法律(Native Lands Ordinance)を1880年に制定しました。
確かにこのゴードン卿の取った措置が無ければ、フィジーの土地はそのほとんどがアメリカのように白人のものになっていたかもしれません。世界が帝国主義の真っ盛りにこのような法律を制定したゴードン卿はかなり見識豊かな人物であったと思います(お情けでこのような法律を作ったと言うより、イギリスはフィジーを部族の長に治めさせる間接統治の方針でいたため、その部族の生活の根源である土地が欧州人のものになってしまえば、この前提が崩れてしまうと考えていたのではないかとも思う)。
しかしながら、この法律が後になってフィジアンとそれ以外民族(大部分がインディアン)との間に格差を生み出すことになりました。

1879年、さとうきびプランテーションの年季契約労働者としてインディアンがフィジーに初めてやってきました。1916年まで流入が続き、彼らの中には契約期間を過ぎても本国に帰らずフィジーに定住する事を選んだ人が大勢いました。さらに、1920 年代以降、フィジーで商売をすることを目的としたインディアンも自由移民として流入し始め、フィジー在住インディアンは人口を増やしていき、一時はフィジアンの人口を上回ることもありました。
フィジーの経済を握り、人口の半分を占めるインディアンも土地を所有する事は出来ず(フリーホールドランドは高価)、フィジアンに農地や居住地の土地代を払い続けなければなりません。インディアンがあくせく働いても、その稼ぎの何割かは、何もしてなくともフィジアンの懐に入ってしまうわけで、当然ながらインディアンから不満は大きくなっていきました。
インディアンの社会的な影響が強くなると、政治的に格差を是正する動きも出ましたが、結局のところ、土地政策を土台としたフィジアン優位の体制を崩すことはできませんでした。その結果、フィジーで働くことは割に合わないと思い、海外に移住するインディアンも最近は多くなり、インディアンの人口割合は急激に減少しています。

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